住まいの創造人
宮大工に憧れ古都・奈良で修行
設計を学び直して地場工務店へ
目指すのは使い勝手のよい家
丸久建設(株) 住宅事業部
野付 健 氏
出水工業高校建築科を卒業後、宮大工を目指して奈良の工務店に就職。その後、大阪工業技術専門学校建築科に進み、建築士の資格を取得後、地元の丸久建設に入社。住宅事業部に配属され、本物の自然素材の家づくりを追求する。夫人と子どもの3人暮らし。趣味は、家を見て回る建築物巡りと旅行。旅先の途中でも見学会を組み立てるほど家を見て巡る旅にはまっている。出水市(旧高尾野町)出身の33歳。
寺社仏閣を手掛ける職人にあこがれ、宮大工の道を目指した少年は、専門学校で設計を学び直し、資格取得後地場工務店へ。使い勝手がよく住まい手側の納得が行くオール自然素材の「寛木(くつろぎ)の家」つくりを目指して奔走する毎日だ。休みの日を利用して家を見て回るのが趣味で「全国の建築物巡りが大好き」と、はまっている。
15、16歳の頃、大工にあこがれて高校の建築科に進む。卒業後、寺社仏閣を手掛ける宮大工を目指し、奈良県の工務店に就職した。この会社は、寺社仏閣建設で多くの実績があり、その道のプロフェッショナルを抱える大手の工務店。
入社早々、道具箱を与えられ、仕事で使うカナヅチ、カンナ、ノミ、砥石などの七つ道具を購入。兄弟子のもとで明けても暮れても厳しい修行の日々が続いた。「技は見て盗め」というのが業界の常識。アドバイスなどは一切ない。練習で懸命に削ったカンナ屑の状態を見て、たまに一言ヒントをくれるだけで、技はすべて感覚的に自分の体に憶え込ませるしかない世界だった。
「木を扱うプロになりたい」と、宮大工の格好よさに魅かれて目指した職人の道は、決して生やさしいものではなかった。結局2年で挫折、奈良を後にすることに。退職時、大工道具代のツケは、まだ支払いが終わらないまま残っていた。
その後、大阪工業技術専門学校の建築科で意匠設計などを学び、卒業後は大阪で二ヵ所の設計事務所(アトリエ系)に通算5年間勤務して、設計士としての腕を磨いたあと帰郷した。
父親の奨めもあって平成22年2月に地場の丸久建設に入社、住宅事業部配属となり、現場回りの日々が続く。最初、目指した宮大工の道に挫折したこともあり、今でも「生涯修行」を掲げて前を向く。
家づくりのベースにしているのは、耐久性、耐震性、そして使い勝手のよさ、間取りなどのデザイン性。常に住まい手側の立場に立ち、お客様の視点で考え、提案することを心掛けている。「丸久の家創り」の基本は、高気密・高断熱・高耐震構造、自然との調和、家事動線のよさ、そこに住む人の安心・快適な暮らし。そして家を創るまで、創ったあとの面倒見のよさが売り物。
だから、いかなる場合でもお客様目線を大切にして生涯愛される家づくりをコンセプトにしている。
同社開催の住宅見学会やセミナーでも、それぞれのテーマ、家に合わせた現場のプレゼンなどに積極的に挑戦するように言われており、提案やセールストークに磨きをかける。上司の北條義和部長は「仕事に一生懸命に取り組み、今後の期待も大きい若手エース」と、評価も高い。
とにかく、使い勝手のよい家、暮らしながら安心し日々感動し、納得の行く家が永遠のテーマ。「自分が目指しているのは、木を扱うプロ。高齢化社会を迎え、お風呂に入る時にヒートショックで亡くなる人が交通事故の死亡者の2.5倍もいるという現実には驚かされる。性能的にも優れ、こうした面でも安心できる家を目指したい。建築業界に生きる身としては、こだわりのある家をアピールし、そこに住む人が安心して命、健康、財産を委ねられる家を造りたい。それが業界人としての使命」と言い切る。宮大工にあこがれ、一回は挫折したものの、木と真剣に向き合う姿勢は一貫して変わらない。